2015年04月16日

投書 ギャンブル(博奕)は教育理念に反します

鍛治野 伊矢代

1.人の射倖心とギャンブル規制の必要
  人は家族や社会の一員です。昔から現代のように法律が定められなくても「決めごと」「きまり」がありました。自分も大切にする、他人の身体生命を害さず、財産も奪わないといったことから、暴行、傷害、窃盗、強盗、詐欺等々、現在でいえば刑法に定めることは禁止されていたのです。
  そして、社会・国家の発展により社会的な利益、そして国家的利益までが損なわれるとして刑罰をもって禁じられるようになったのです。
  賭博や富くじの発売は、当事者にとってはよくても、健全な社会秩序を損ねます。日本でも記紀万葉時代の8世紀から規制され、これは明治維新後の近代化社会に続いています。貴族官人支配層に盤双六などが一定普及し、役人らが職務を果たさなかったり、給与を賭けて失ってしまい破局することがあったからです。
  江戸時代には、町人の賭博が寺や旗本屋敷の仲間部屋を賭場にして行われるようになり、地方でも庶民が副収入を得るようになると関東、東海とヤクザが賭場を開くようになりました。
  人が本当にギリギリの生活で食べていくだけなら、賭博に手を出そうとする射倖心は育ちにくいでしょう。しかし、人が小金を持つとそれを利用した賭博開帳や宝くじ売りが生まれ、庶民の射倖心を煽って収奪することが拡がったのです。
  人は射倖心を生まれながらに持つので、これを社会的法的に禁止しても無駄である、むしろ、射倖心を適当にコントロールするシステムを作るべきだという意見もあります。(中には、ギャンブルをする自由を奪うことは人権侵害だという者もいますが、これは例外でしょう。)
  子どものジャンケンや順序をクジで決めるという「合理性」を強調したり、人の性(さが)を認め、むしろ儲けの世界を拡げて公認ギャンブルこそ闇ギャンブルの弊害をなくす手段だという論理にも使われます。
  しかし、単なる占いくじや機会を平等化するクジの肯定と、金を賭けるくじや賭博とを同列視することはできません。単なる占いくじは別に詐欺を伴いませんし、人を破局させません。単なる順番決めのくじも問題は生じません。
  ヤミの賭博を合法化はできないし(そういう意見まではほとんどありません)、今いわれているIR(統合型リゾート)のカジノも結局、国家が勧める賭博です。それが地方自治体の収益源になると宣伝されて、観光・娯楽産業に期待する投資家がいるということです。そして、地域や業者を限定して特別法下に賭博場を作るというのが、いわゆる議員立法のIR法案です。
  このIR法案は法案自体、IRにより弊害が生じることを認めています。①犯罪組織の生成・拡がり、②マネーローンダリングや脱税、③ギャンブル依存症の発生、④教育・文化環境を害する点などです。これらの弊害、社会悪の克服は容易ではありません。導入論者は簡単に克服できるかのようにいいますが、いずれのカジノ導入国家でもその弊害には苦労しています。

2.ギャンブルは本質的に反教育的です。
  教育にとっては射倖心を正面から肯定できません。単なるゲームからお金の取り合い(盗り合い)をするギャンブルが当然になれば、人は正当に働いてお金を得るべきと言えないのです。公営競技やパチンコというギャンブル、宝くじ、サッカーくじ等は勧めるものでなく、酒・タバコ・薬物と同様抑制し、未成年者や依存する人には禁止すべきものです。
  また、ギャンブル依存により経済的困難が生まれ、多重債務者にさせ家庭を崩壊させることになりますのでギャンブルを認めるべきではありません。
  お年寄りがギャンブルにしか楽しみがないとすれば、そんな高齢者社会や成年教育のあり方が問題です。お年寄りがオレオレ詐欺や特殊詐欺に遭わないようにするために、消費者教育が必要といわれていますように、ギャンブルについても教育が必要です。
  ギャンブルに依存する高齢者だらけの競輪、競馬、競艇などは、日本の消費者教育(社会教育)の失敗どころか反教育宣伝システムそのものの結果ではないでしょうか。
  日本の総理大臣、文部科学省の大臣、教育委員会の委員長、教育長の方々は、社会教育としてギャンブルが必要だと考えておられるのでしょうか。


posted by inoue at 00:00| Comment(1) | 会報34号 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
当人同志が承知で、金銭を賭しているのに、なぜ国家が口出しをしなければならないのですか。
道徳的にも賭事がなぜわるいか考えられない。
日本の立法者の主意は、賭博にふけって、正業を営まない者を戒しめる趣意でありましょうが、それならば、(賭博を職業とする者を罰する)意味の法律にすればいいと思います。
野球勝敗の予測、麻雀、弄花、ポーカーなどに、友達同志が、少しの金銭に賭して、勝負を面白くすることがなぜわるいか、どうも私には分かりかねます。

英国人が、嘘のつきくらべをしたら「俺は、一生賭をしたことがない」と云った男が一等であつたと云い、水夫二人が難船し、やつと鯨の背に泳ぎつき、ホッと安心すると、一人がポケットから、サイコロを取り出して、(サア一丁行こう)と云つた話。
賭事は、人生に於ける最も刺戟的なロマンチツクな行事です。

ロマンスと云ふ意味を、ある学者が、(人生の目的が即座に成就するが如き幻覚をいだくこと)と云っていますが、この頃の現実生活で、そうした夢がどこに求め得られますか。
苦悩退屈の現実生活の憂を、忘れるのは、麻雀で満貫が成就され、競馬で大穴を取つた瞬間などではないかと思います。

現実生活が、逼迫すればするほど、こうした人生の逃避所や人生の別世界は、ゼヒ必要であります。

もしかくのごとき人生の逃避所や別世界が閉ざされたなら人心はとみに荒廃し、犯罪発生率はとみに上昇し殺人婦女暴行窃盗放火がうなぎ上りに上昇し日本国中がリアル北斗の拳ないしはリアルマッドマックスと化すこと必定であります。
Posted by この疑問に納得のいく答えをしてください at 2015年09月15日 10:15
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